氏 名 |
鈴木正穂(すずき まさほ) |
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1949年(昭和24年)1月13日生まれ。 京都市左京区吉田に生まれ育ち今も吉田に在住。
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・1987年(昭和62年)京都市会議員に初当選。
現在7期目。2006年京都市会第81代副議長など歴任。
(現在)
・民主党京都府連常任幹事・民主党2区総支部幹事長
・京都市会「くらし環境委員会」委員長
・京都市会「市会改革推進委員会」委員
・民主党全国自治体議員フォーラム副会長 |
学 歴 |
京都市立第四錦林小学校 京都市立近衛中学 京都府立鴨沂高校卒 1968年 同志社大学文学部文化学科文化史専攻入学
1977年 同志社大学文学部文化学科文化史専攻卒業 1995年 同志社大学大学院総合政策科学研究科入学 1998年 同志社大学大学院総合政策科学研究科修了 |
京都市会の役職歴 |
京都市会同和問題解決推進委員会委員長
建設消防委員会委員長、
くらし環境委員会委員長
京都市監査委員
京都市会運営委員会副委員長・理事
新基本計画審議会委員
新庁舎整備懇談会委員
京都市同和問題懇談会委員
京都市都市計画審議会委員
社会党(社民党)市会議員団副団長
民主・都みらい京都市会議員団団長、
京都市会第81代副議長など歴任。
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わが青春時代 |
鴨沂高校時代は、山岳部。自治会活動など。一浪した後、1968年同志社大学文学部に入学。時代は学生運動の真只中、全共闘世代。山岳部に入ったが、すぐに退部してベトナム反戦運動、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)に参加。デモの日々。また反戦脱走米兵援助に携わり、京都弁のカタコト英語を今も喋る。69年には復帰前のオキナワを旅して、「20才・夏・沖縄紀行」を「思想の科学」に寄稿。ルポライターになるのが夢だった。1970年には、休学をして革命家のチェ・ゲバラに憧れてキューバにサトウキビ刈りに。帰国後、岩国の「反戦喫茶ほびっと」の設立や運営に関わり、そこで出会った今のカミさんと24才で結婚。
74年から、「駱駝は眠っている」(砂岸あろ著かもがわ出版)の舞台でぼくも登場している烏丸今出川の喫茶店「駱駝館」のマスターをしながら、1977年、同志社大学文学部文化学科文化史西洋史専攻を9年目にしてやっと卒業。卒業論文は「プエルトリコ史概論」。卒論を書き終え長男が誕生。その後、京都イングリッシュセンターで留学生問題の調査のスタッフ。
1979年、30歳の時に髭を伸ばしたまま、京都市会議員選挙に初挑戦(革新無所属)。選挙ドキュメントとして「猫もネズミも怒ってる」を発行。
その後「月刊地域闘争」(現在の「月刊むすぶ」)編集者として各地の住民運動、市民運動と交流。
83年に2度目の挑戦。落選。その選挙のときのドキュメントは「アサヒグラフ」に掲載され、後に「地方政治家」(長沼石根著 晩聲社刊)の中の一章として掲載される。その後、京都市中央市場塩干部の中卸会社「山本水産」に勤務、また百貨店の配達もして朝から晩まで労働の日々。
1981年から毎月1回の「核と戦争はごめんだ!市民定例デモ」を開始、
様々な市民運動に関わる。定例デモは、96年まで15年間、180回続ける。
1987年(昭和62年)38歳の時、太田光子市会議員の後継者として社会党の推薦を得て、3度目の挑戦で京都市会議員に初当選。清水達也府会議員とアベック当選。市民派議員としてデビュー。 |
市会議員になって |
●1期目(87年―91年)
古都税紛争で疲弊した今川市政の末期。市民に開かれた市政を目標に、大見総合公園計画など環境問題、留学生問題屋や在日外国人の人権、脱原発問題などについて論議。衆議院選挙問題で社会党を除名になり、10ヶ月間、無所属議員も経験したが、その後、復党。4年間の活動をまとめた「なんだ坂こんな坂」出版。
●2期目(91年―95年)
田辺市長の誕生。バルセロナの世界歴史都市会議に参加。ようやく京都市情報公開条例が制定。ゴルフ場計画など環境問題や景観やマンション問題が話題。
新京都市基本計画審議会委員にもなり京都の未来を議論。また同和行政や国籍条項問題などテーマにシンポジウムを企画。
●3期目(95年―99年)
京都市監査委員をつとめる。同志社大学院総合政策科学研究科に入学、伊多波ゼミで地方財政論を学ぶ。修士論文「京都自治体論・序論―最適都市をめざして-21世紀・京都グランドビジョンへの提言」を中心に「京都自治体論」を出版。「これからの政策評価システム」(伊多波良雄編著・中央経済社刊)に「体験的政策評価論」を出筆。京都市同和問題懇談会委員。
「社民党(社会党)京都市会議員団」から「京都市民クラブ」に。98年秋、社民党を離党、民主党に入党
●4期目(99年―2003年)
民主・都みらい京都市会議員団結成、議員団ニュースを創刊、発行人となる。また市会運営会副委員長・理事として京都市会情報公開条例制定や議員定数削減問題を調整。ホームページを開設(91年)以降「ひとくち日記」を書き続ける。インターン生を受け入れ。
●5期目(03年―2007年)
民主・都みらい京都市会議員団団長を拝命。議員団の活性化や、理事として市会改革に取り組む。04年市長選挙の民主党の責任者として桝本市長3選に努力。事務所にて「鈴木マサホ定例サロン」を始める。韓国は慶州市での世界歴史都市会議に参加。わが2区総支部の前原誠司衆議院議員の代表就任と辞任には驚いた。2006年5月30日京都市会第81代副議長を拝命。
●6期目(07年―11年)
副議長で有頂天になっていたので38票差で惜敗、次点で落選
するも、当選者のひとりが公職選挙法違反で、3か月遅れで繰り上げ当選。京都市会始まって以来のこと。「天の声、地の声、人の声」のお陰なのでしょう。その秋。桝本市長の辞任を受けて、門川大作教育長の市長選挙などで奮闘。薄氷の勝利で門川市政誕生。また民主党は、09年夏の総選挙で政権交代!鳩山由紀夫から菅直人総理に。前原誠司、国交大臣や外務大臣を歴任。
また新型インフルエンザ騒動やリーマンショックで京都市財政も疲弊。くらし環境委員会委員長など歴任。そして11年3月11日、東日本大震災と福島原発事故。未曽有の大災害が日本を襲う。衝撃でした。
●7期目(11年―14年)
東日本大震災と福島原発事故の直後の市会議員選挙。4位の高位で7期目の当選。感謝です。11年秋には、初めて宮城、福島の被災地に入り衝撃を受ける。市会では、教育福祉委員会委員として2年、高校の入試改革や総合支援教育の在り方、障害者の福祉施策のこと、また「くらし環境委員会」委員として原発に依存しない再生可能エネルギー推進など政策提言。また市会改革推進委員として議会基本条例や議会報告会の開催など主張。試行的であれ議会報告会が開催できました。韓国は木浦の福祉施設の訪問や世界歴史都市会議でベトナムはフエ市を訪問。いい経験になりました。
13年秋には台風18号で左京も大被害。4年4月からくらし環境委員会委員長を拝命。さらなるゴミ減量の取り組みや京都会館の再整備事業なども議論。京都を文化豊かな環境都市として発展するように頑張っています。2015年1月には66歳。されど元気一杯ですよ!
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